忠勇戦死之墓・天狗党員墓(首塚)(茨城県ひたちなか市)

元治元年甲子十月十日
忠勇戦死之墓

  昭和八年癸酉十月十日改刻 世話人 飯田留𠮷


宮内家有縁
天狗党員墓



建立年:慶応2(1866)年
建立者:十三奉行の人々
建立地:ひたちなか市鶴代2341-1

首塚(忠勇戦死之墓)
那珂湊市指定史跡
昭和四十六年十二月二十一日指定 那珂湊市鶴代二三四一ー一

 元治元年(一八六四)、尊王攘夷派(天狗党)と佐幕派(諸生党)との戦闘は茨城県下に広がり、尊王攘夷派は最後の拠点として水戸藩随一の商業都市那珂湊に結集した。
 海と陸との両方から包囲された尊王攘夷派は必死の抵抗をし、那珂湊での戦闘は熾烈を極め、七十数日に及長期戦になった。特に十月十日の戦闘は熾烈なものとなり、市内の至る所に飛び火して繰り広げられ、特に部田野原の戦闘はすさまじく、尊王攘夷派は甚大な損害を被った。十月二十三日には尊王攘夷派(天狗党)の多くは投降しましたが、残りは包囲を破って京都を目指し、福井県敦賀の松原まで逃げ延びたが、悲惨な最期を遂げている。
 この十月十日の熾烈な部田野原の戦闘での戦死者の首級を手厚く葬ったのが首塚で、慶応二年(一八六七)十三奉行の人々がこの地に供養のために建てた石碑が忠勇戦死之墓である。
(案内板より)
※那珂湊市は現在 ひたちなか市。


撮影日:平成28年8月10日

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