恩光無辺の碑(茨城県水戸市)
建立年:昭和10(1935)年
建立者:室田義文 ほか
建立地:水戸市八幡町11-69(祇園寺境内)
題:恩光無辺
明治戊辰悲徳川宗家之衰廢慷
慨赴難者水戸藩士中不下數百
人而
皇恩洪大録宗家後爲慰靈亦可以
瞑矣茲舉其姓名録于碑背云尓
昭和九年申戌秋
朝比奈知泉撰
室田義文篆額
碑前の第1回慰霊祭式典は、昭和11(1936)年9月23日に行われた。これには田中光顕氏も参列したという。
この碑の前面及び裏面の「後援」に名のある室田 義文氏は、弘化 4(1847)年に中立派に属す水戸藩士 の家に生まれた。
明治になると太政官として出仕し、樺太や天津等に赴くなど外交官として活躍した人物で、党争を間近で目撃していた人物であり、自らも弘道館の戦いに出陣、また明治 2 年 4 月 3 日に行われた諸生派の市川三左衛門の処刑も見物に行っている。
彼は晩年、水戸市に現在の回天神社の忠魂塔や祇園寺の恩光無辺の碑の建立など、天狗党・諸生派といった派閥を問わず顕彰活動を行った。
以下、『室田義文翁譚』の「恩光無辺碑の建立」より。
聖代の今日、天狗、諸生を論ずるの必要なし。既に勤王派のために忠魂塔建設を見たる以上佐幕勤王派のためにも建碑をなし其靈を慰むる要あり。斯くすれば、曾ては彼我主義の相違より出發點を異にし、互に反目殺戮を敢てしたる殉難志士の英靈も笑つて地下に握手して既往を語り合ひ共に護國の途を歩むであらう。要するに、兩派その誠忠に至つては毫も異らざるものである故に、兩者の靈を併せ祀るは後人の爲すべき務である。
(室田義文翁物語編纂委員 編『室田義文翁譚』常陽明治記念会,1939 年,65-66 頁より)
撮影日:平成28年12月26日
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