香川敬三のふるさとをめぐる ①
最近、なにかと話題の香川敬三さん。
例に漏れず私も関心が増す一方で…
明治期に皇后宮大夫などとして活躍していた旧水戸藩出身の彼の故郷は、現在の常陸大宮市下伊勢畑地区。
その下伊勢畑地区から車で15分ほど離れた常陸大宮市文書館で行われている展示、「香川敬三の手紙」を見に行きたい…!
それと、せっかくなら他の香川さんに関わる場所にも訪れたい!
と思い。
今回は午後に予定があったので絞って、野口郷校跡と下伊勢畑地区の吉田神社、そして鯉沼伊織埋髪塔に行ってみることにした。
🐣
常陸大宮市文書館のある常陸大宮市北塩子までは、水戸の市街から車で50分ほど。
栃木県がもうすぐそこに迫っている山間部にある。
元々は市立塩田小学校だったが廃校になり、その校舎を活用している。
窓の装飾がカラフルでかわいい(’-’*)
展示はエントランスにあるということだったので、入ってすぐにはパネル展示が。
香川敬三の生家 蓮田家、養子先の鯉沼家の系図のパネルや、香川さんのことを語った坊城俊良の『宮中五十年』の一節が書かれたパネルなどがある。
坊城さんは香川さんのことを「大夫職の範ともいうべき」と言っていて、立派な方だったことがうかがえる。
今回の展示のメインとなる香川敬三や娘の志保子さんが様々な人に宛てた手紙の展示は、その裏と会議室にあった。
大隈重信との手紙が早稲田大学のアーカイブに載っているのは先日見たばかりだが、明治以降のものだからか保存状態がよく役職の関係か数も多く残っているような気がした。
そして何より香川さんの人柄が垣間見える。
以下、なんとなく気になったところを箇条書き。
・水戸藩出身の中川忠純への書簡に、「新聞一件」について心配をかけたことへの謝罪や、お調べを中止するように伝えてほしい、というものがあった。「新聞一件」が何を指すのか分からないと書いてあったが、当時の新聞見れば分かる?
・自由民権家の井土経重あての書簡に、井伊家の古文書を新聞紙上に出しても差し支えない というものがあり、「某氏」の返事として朱で書かれている中に、~を材料に『開国始末』を編集したと思われる、という部分があったのだが。開国始末 と書かれているあたりが他に比べてやや大きく筆も割れているような状態で書かれたもののようで、ついそこに視線がいってしまう。笑(←それに対してどんな思いがあったかは分かりません^^;)
『開国始末』自体は明治21年の刊行なので、この書簡はその20年以上後の話。
・薄井竜之(督太郎)に宛てたものもあり、ぞぞっとした。
同じ尊攘の志士だから幕末の頃すでに交流あったのかなあ、それとも岩倉卿繋がりかなあ、なんて思いつつ。
・香川さんは、鯉沼家の養子になったにも関わらず故郷を出て、そのうえ娘も出てしまい鯉沼家に返さないということに対して、「返ス〱も多罪難免れ一言の申上様も無之恐入罷有候」と鯉沼家への書簡で述べている。
・志保子さんが鯉沼家の系図をどうしても手に入れたいような様子の書簡が気になった。これはどうやら、このすぐ前に展示されてあった「鯉沼某従五位下」に叙任されたという人物を探すためのものだったらしい。はたして、初代から6代までの系図は見つかったのだろうか?
香川さんも志保子さんも、故郷への思いは常に強くあったのだろうな、と感じられるものが多かった。
こちらの展示は2月3日(日)まで。
気になる方はお早めに!
🐥
じっくり見すぎて時間がなくなりつつあったので急いで次へ🚗💨
続いて、時雍館(野口郷校)跡。
常陸大宮市文書館からは車で15分かからないくらい。
御前山の赤い橋(那珂川大橋)の方に向かって南下、坂を下る途中を左折。が、私は反応が遅れすぐに曲がれず、Uターン……笑
野口郷校は水戸藩の6番目にできた郷校で、弘化4(1844)年に建てられ、斉昭公の失脚もあり嘉永3(1850)年に遅れて開校。
香川さんが学んだ場所のひとつ。
そしてここの4代目館長を務めたとされるのは、田中愿蔵。
愿蔵さんはここの教え子らを連れて筑波山挙兵に加わったという。
去年八溝山に行ったことも相まって、そのことを思い出してはまた浸る、、、
『茨城県幕末史年表』によると、元治元年8月1日の記述に
水戸領大宮村及びその附近の村々に、激派への不平より、庄屋、神官宅を襲う等、一揆おこる
(百姓一揆総合年表)
とあり、激派でない農民らが庄屋等を襲った際にここも焼失したらしい。
個人的に、水戸関係の学び舎は何かと物騒なイメージがあるが、それだけ優秀な人が多かったということは、言わずもがな。
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次に向かったのは…と続けたいところたっだが、なんだか長ったらしくなってきたので一度ここで区切る。
残るは、吉田神社と鯉沼伊織埋髪塔。
②へ!
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