松原神社例大祭のいま

2018年10月10日(水)。
福井県敦賀市松原町に位置する松原神社で、例大祭が斎行されました。

例大祭には2年前に調査で訪れたことがあり、外からの見学は今回が2度目。

その時の様子や情報も交えていきます。



1.松原神社の創始

 武田耕雲斎らを敦賀において祭祀しようと発案したのは、水戸藩家老で本圀寺党だった大場一真斎でした。慶応3(1867)年3月15日、敦賀の僧侶だった行寿院峻山が、御霊大明神の神号と耕雲斎らの神名帳を下付され敦賀の自坊の一部屋に奉祀したことが、松原神社の創始とされています。社殿もなく始まりました。

 明治になると峻山は斎藤弥寿正と改名して東京に出て、公然祭祀を神祇官や水戸藩に申請。明治2(1869)年9月7日に水戸藩より正式に政府に願い出、次いで同3(1870)年11月に小浜藩に請願しましたがうまくいかず、水戸にて協議を重ねます。結果、武田耕雲斎の親族代表の河井房治郎と同志代表の根本弥七郎と連署して、同6(1873)年12月に社殿創立の地所払い下げを敦賀県に願い出、改めて茨城県やそれを通しての教部省への申請を行い、教部省の認可を得られたのは同8(1875)年1月23日のことでした。その後の敦賀県への申請により、神社の敷地2,033坪のうち墓地の256坪を除いた1,777坪を払下げられました。

 初めて松原神社の社地で祭典が行われたのは明治12(1879)年10月10日でしたが、まだ社殿はなく、神籬(ひもろぎ)を立てて行われました。

 社殿の建築資金を募集すると、前田侯爵家や德川公爵家、他にも有志からの寄付があり、明治26(1893)年から鳥居、社殿と建立、鎮座式は同31(1898)年10月9日に行われました。



2.例大祭はなぜ10月10日か

 明治11(1878)年10月10日、明治天皇が北陸巡幸に際して、武田耕雲斎等の墓前に勅使を遣わし、墓の祭典費用として金500円を下賜されたことに由来します。



3.松原神社例大祭のいま

 松原神社や武田耕雲斎等の墓の周辺には、「浪人まつり」と書かれたのぼりが並びます。

 こののぼりは、松原神社の140年祭に合わせて平成16(2004)年から設置するようになったとのこと。(この「浪人まつり」という名称にも、様々な意見があったよう…)

 例大祭は、気比太鼓保存会の方々による演奏から始まります。

 松原神社の社殿の前に参列者は座り、厳粛な雰囲気のなか神事が斎行されます。神事も終わりに近くなると、敦賀岳心会の方による天狗党員の辞世の句の献詠奉唱もあります。

 神事を執り行った後、道路を挟んで向かいの「武田耕雲斎等の墓」に移動しお焼香を済ませ、記念撮影、そして直会、という一行事。

 敦賀市や水戸市をはじめとして、70名前後の方々が参列します。そのうちの何名かにあたりますが、武田耕雲斎らのご遺族の方々も毎年参列されています。


 近年では、武田耕雲斎らの出身藩、現在の水戸市と、ここ敦賀市が姉妹都市の関係であるということもあり、自治体同士の交流の場となっているようにも見受けられます。

 当日は、水戸市や敦賀市だけでなく、茨城県からは潮来市や常陸太田市の自治体関係者や天狗党関連の各顕彰団体も参列されます。

 ちなみに2年前の2016年に訪れた例大祭には、茨城からは以下の慰霊、顕彰団体が参列されていました。今年も同じだったと思います。

 ・幕末維新水戸有志を偲ぶ会

 ・常陸太田水戸烈士遺徳顕彰会

 ・潮来市水戸烈士遺徳顕彰会

 他には水戸ライオンズクラブなど。

 今年、偶然見たバスの団体名に「吉田塾・幕末維新水戸有志を偲ぶ会」とあったので、吉田塾の方々もいらっしゃっていた?


 松原神社での例大祭は、水戸市の回天神社で10月14日に斎行される秋季大祭とは異なり、参加人数も含め規模が大きいように感じました(神社の境内の広さもだいぶ異なるけども)。回天神社は春と秋の年2回の例祭がありますが、春季には足を運んだことがないため一概には言えないですが、おそらく秋と同程度のものなのだと思います。


 松原神社の氏子の方や地域の方々による清掃活動なども行われているようで、綺麗に保っていただいています。

 近くの保育園から散歩に来たらしい園児達や、近所の方も見に来られており、敦賀の歴史の中にも息づいていることがうかがえました。


参考

・藤井貞文『松原神社祭神事歴(復刊)』敦賀水戸烈士遺徳顕彰会,平成23年

・幡谷賢三「敦賀での水戸天狗党顕彰について」日本海地誌調査研究会会誌 (13),2014 年,38-59 頁

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いばらき幕末紀行

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